おすすめの本 夕顔という女


 突然ですがみなさん、夕顔ってどんなイメージがありますか?
 もちろん当サイトでの話題ですから、植物の方ではなくて、
 惟光の実家(実家ということになりますよね?)の隣の家に住む女君のことです。

 彼女は、頭中将が雨夜の品定めで語っていた、常夏(撫子の別名)の女です。
 頭中将によれば控え目でおとなしい性格だということでしたが…

 通りかかった源氏に突然歌を詠みかけるような、大胆すぎる行動をとったり
 (当時としては大胆を通り越して、ありえない、はしたない(!?)行動です)、
 色目を使いながら相手の気を引くような演技したと、
 一般にはよくいわれていますよね?

 しかしこれは、およそ頭中将の行っていたような彼女の性格には合わない行動です。

 「頭中将の前では控えめでおとなしい女でいたけれど、こんな別の一面もあったのだ。
 これが人間の持つ複雑さなのだ」とか
 「そのつかみどころのなさが夕顔の魅力だ」とか、
 そういう方もいらっしゃるでしょう。いろいろと意見が分かれそうです。
 「夕顔には娼婦性があるのだ」とよく言われていますよね。

 ですが、考えてみればずいぶん変なことです。
 いくらなんでもひとりの人間、こんなに違わないでしょう??

 前置きが長くなりましたが、今回ご紹介する本はこちら↓

黒須重彦 著 「夕顔という女」 (笠間書院) です。

 この本によると従来考えられていた夕顔像は間違いで、
 その間違いは読者の「誤読」によるものだというのです。
 ショッキングですね!

 夕顔は適当に、内容だけさらうように読んでいた管理人でしたが(おいおい)
 この「夕顔という女」は読んで本当に驚きました。
 黒須先生の説だと、いろいろなつじつまがきちんと合うような気がするのです。
 そのうえ、紫式部の物語作りの巧みさが感じられるのです
 (このことについては別の機会に書きます(ほんとかな)。

 この本では特に、夕顔と源氏が詠み交わした4首の和歌

 1.心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花
 2.寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔
 3.夕露にひもとく花は玉ぼこのたよりに見えしえにこそありけれ (露の光やいかに)
 4.ひかりありと見し夕顔のうは露はたそがれどきの空目なりけり

 の解釈を中心に論じられています。

 具体的には…

 まず、
 心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕顔の花 について

 <今まで行われてきた解釈(本書を元に管理人が適宜まとめています。以下同じ)>
 当て推量で、源氏の君かとどうも、私は見ます。白露で光沢を添えている夕顔の花の如き、夕方の顔の美しい方を。
 (「それ」はその人、すなわち源氏を指し、「夕顔」には人の「顔」を掛けている。)

 <黒須説>
 そこにいらっしゃっている方は、もしやあなた(頭中将)さまではありませんか。
 もしそうなら、このようにむさくるしい五条あたりに、あなたのように高貴な方の御光来をいただいて、
 いやしき花の咲くこのあたりも光り輝くようでございます。うれしゅうございます。


 次に
 寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔 については

 <今まで行われてきた解釈>
 側に近寄ってこそ、その人がだれとわかるでしょう。
 近寄りもしないで、夕暮れ時にほのかに見た夕方の顔を、誰だとは分かるはずがない。

 <黒須説>
 もっと親しく近づいて、はっきりそれと見たいものだ、さぞかし花のように美しいであろうあなたを。
 (「花の夕顔」は源氏ではなく女君を表す。)


 また、
 夕露にひもとく花は玉ぼこのたよりに見えしえにこそありけれ
 露の光やいかに                            については

 <今まで行われてきた解釈>
 夕顔の露にうるおされて莟(つぼみ)の開く花の顔は(ただ今、私の顔をお見せするのは)、
 通りがかりに、私の顔をあなたに見られた因縁からでした。
 (「紐とく」は、莟が開くことと、覆面の紐を解いて顔を現わすことを掛けた。
 「花」は源氏の顔を指す。「玉鉾」は「道」の枕詞。
 「心あてにそれかとぞ見る……」の歌を受けている。)
 続く「露の光やいかに」とは、「露が光をそえたように美しいと思いますか」という意味。

 <黒須説>
 このように私の愛によってあなたと私とは親しくなり、昨夜あなたは私のものとなったが、
 それはあの夕暮れ時にたまたま私があそこを通りかかった縁からだったのですね。
 (「紐とく」は源氏と夕顔が親しくなったこと、「花」は源氏ではなく夕顔を指す。
 続く「露の光やいかに」は、)
 あなたはあのとき、私に「(白)露の光(添へたる)」と詠みかけてきましたが、
 その露の光は、あなたの思ったとおりのかたでしたか。


 最後に
 ひかりありと見し夕顔のうは露はたそがれどきの空目なりけり については

 <今まで行われてきた解釈>
 かつて私が夕顔の花の上露に、光があると見ましたのは(以前に、あなたのお顔が美しいと見たのは)、
 ほの暗い夕暮れに見た、私の見損ないでこざいましたっけね。
 (本当は源氏のことを美しいと思っているが、
 源氏に戯れる気持ちでわざと反対のことを言う。かなりうち解けている。)

 <黒須説>
 「時には我が子に慈愛をかけて下さい」との切なる願いが聞きとどけられて
 (夕顔は身を隠す前、頭中将に
  山がつの垣ほ荒るとも折々にあはれはかけよなでしこの露
 (幼い女の子(のちの玉鬘)のためにときには顔を見せて下さい)という歌を送っている。)
 このようなところまでお訪ね下さったのかと思い、大変うれしく光栄に思ったのですが、
 たそかれ(誰そ彼)どきでありましたので、
 人違いをしてしまったのです。


 この他、源氏が夕顔と会うときに覆面をしていたというのはおかしいということや、
 「ひかりあり……」と夕顔が答えるときの「しりめに見おこす」は、
 夕顔は流し目で源氏を見たのではなく、恥ずかしそうにちらっと見ただけだとも書かれていました。
 4首の和歌を中心に、夕顔の巻全体の表現から
 夕顔という女君の人物像が論じられています。
 夕顔はとにかく控え目で内気で、嘘のつけない女性であると
 (世渡りが下手とも言えるのかもしれません)、
 黒須先生は結論付けています。

 それぞれの説の根拠については、ぜひみなさんで読んでお確かめ下さい。
 長くなりすぎますし、
 私のいい加減なまとめ方では、かえって分かりにくくなりそうですし…

 この本からは、黒須先生の情熱と気迫のようなものを感じました。
 ですが、私が黒須先生の説に賛成するのは、それだからというわけではないのです。
 始めにも書いたとおり、その方が自然だと思えるからです。
 黒須先生の説は、現在も中心的な説とはなっていないようです。
 私がつい最近買った源氏物語の口語訳の本でも、
 夕顔の内容は従来説のままでしたし…
 (その本は、やたら高かったので、エコポイントでもらった図書カードで買いました。)

 夕顔についてはさらにほかの説もいろいろとあるようです。
 ですから、他の説を読んでみる必要もありそうですし、
 少しずつ読んでいければと思います。


 さてさて、本の紹介に戻りますが…
 この本は古典と呼べるような研究書などからの引用が
 口語訳もなくそのまま載っているので、
 管理人を含む古文初心者には、ややツライところもありますが
 興味深い内容だと思います。

 へぇ、おもしろそうだなと思ったら、ぜひお読みください。

 絶版本ばかり紹介している(!?)当コーナーですが、
 今回の本は調べた限り
 2008年4月に再び出版されたようです。
 「夕顔という女 増補版 露のゆかり」というタイトルで、同じ笠間書院から出版されていました。
 2年前ですし、探せば手に入るかもしれません。
 (管理人が読んだものは昭和50年1月30日発行のものでした。
 例によって借りて読んだものです。)

 <2010年12月30日>



 夕顔をイメージしたビーズドールを作ってみました→こちら
 (夕顔の巻について管理人の考察もすこし載せています)





2010年12月30日公開
2012年3月10日更新



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